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明治5年創業|HISTORY|会長:大島嘉七

大島造園土木の歴史

当社の創業は、日本の文明開化が進む1872年(明治5年)。私の祖父が、大島嘉七商店を創業したことが始まりです。聞き伝えでは、それより前の江戸時代から庭師として尾張徳川家に出入りし、城郭庭園の樹木の生育や剪定等の管理に携わっていたそうです。1881年(明治14年)、名古屋城二の丸庭園の復元工事に携わっていますが、これなどは江戸時代から積み重ねてきた経験と実績が評価されたからなのかもしれません。

昭和初期、工場の緑化・造園工事を開始

会長:大島嘉七昭和の時代に入ると、名古屋に工業化の波が押し寄せていました。綿織物や航空機などの重工業や、自動車産業が起こったのも昭和初期でした。
そうした時代の流れに伴って、製造工場の緑化・造園の仕事が増えてきました。工場緑化は、現在も当社の事業の柱となっていますが、当社の歴史を紐解くと、この頃が原点だったのでしょう。
当時の当社は、社長と番頭格のマネージャーが1人、そして庭師の職人頭が5人ほどいて、それぞれの職人頭に4、5名の若い職人が付いていました。当社の職人は「腕がいい」と得意先の間で評判だったようです。そのおかげもあって戦争の足音が近づく時代の中でも順調に業績を伸ばしていきました。

社長が出征先で戦死。当社最大の危機に直面

私が生まれた1943年(昭和18年)は、太平洋戦争の真っ只中にあり、名古屋市はたびたび空襲に見舞われるようになりました。その翌年1944年(昭和19年)には父が出征することが決まり、当社にも戦争の暗い影が忍び寄っていました。
1945年(昭和20年)になると、名古屋市街地への空襲が激しくなり、母や社員はそれぞれの疎開先へと居を移していきました。それでもいつかこの戦禍は収まり、また仕事を再開できるものと考えていたようです。
しかし、終戦の年、1945年(昭和20年)に、会社の存続を揺るがす大きな危機が訪れました。父が出征先の沖縄で戦死したのです。母や社員は、戦時の混乱の中で社長という精神的支柱を失い、途方に暮れてしまいました。

社員の思い、お客様の支援で復活

大島造園土木株式会社の歴史終戦を迎え、疎開先から戻ってきた母や社員たちは、会社の将来について話し合いの場を持ちました。社員は、会社の存続を望み、母に「社長を務めてほしい」と強く迫ったのです。しかし、実務経験が乏しい母にその自信はなく、社員の期待に沿うことはできないと考えていました。
そんな時、ある工場関係者の方から、こんな連絡があったそうです。「戦前のように、引き続き工場の造園作業をやってほしい」と。終戦間近の空襲で甚大な被害を受けながらも、再建を果たそうとする工場関係者の方々の思いに応えていくことが自分の使命なのか。そんな自問自答の末に、母は社長に就任することを決めました。
幸いなことに、得意先からの引き合いは途絶えることがなく、母も社員も社長を失った痛手から徐々に立ち直っていきました。 戦後の混乱もあって、昭和20年代は、苦労に苦労を重ねた時代でしたが、社員の結束とお客様との強固な結びつきが、この混迷期を乗り越えさせてくれたようです。

好景気と緑化ブームで、一気に事業を拡大

大島造園土木株式会社の歴史昭和30年代から日本経済の高度成長が始まりました。高速道路が開通し、名古屋都心部にはビルが立ち並び、ゴルフ場やレジャー施設の建設も相次ぎました。当社は、こうした時代に対応し、高速道路などの交通施設や大型の公園施設、工場、都市部の緑地計画など緑化事業の新たな市場に積極的に参入していきました。
当社に私が入社した1966年(昭和41年)は、そんな高度成長時代の絶頂期。仕事を受注するよりも、仕事をこなすほうが大変な時代で、入社後の数年間は満足に休暇もとれず、まさに寝食を忘れて働いていた時代でした。
当社が創業100周年を迎えた1972年(昭和47年)には、当社にとってさらに追い風となる出来事がありました。工場立地法の改正が行われ、一定規模以上の工場は敷地の10~30%の緑地を設けることが義務付けられたのです。
これにより、工場や事業所はもとより、社会全体で”緑化ブーム”が巻き起こりました。この影響から当社の事業はいっそう活発化し、昭和40年代当初から48年の7年余で売上が約10倍も増加しました。

不況到来と、得意先からの苦言

大島造園土木株式会社の歴史昭和40年代の後半に、オイルショックに起因する不況が到来し、それまでの活況がウソのように、市場は一気に冷え込んでしまいました。当社も少なからず影響を受けましたが、従来からご愛顧いただいている得意先との関係を大切にしていたことで、深刻な落ち込みはありませんでした。
ただ、1977年(昭和52年)に完成する20万坪もの新設工場の緑化事業を最後に、大きな工場の新設はないという話があるなど、仕事の周辺から低成長時代の到来を予感させる空気が漂っていました。
そんなある時、得意先の担当者の方からこんな指摘を受けました。「大島君よ、植樹もメンテナンスも、すべてキミのところに任せているのに、木が大きくなっていない。いまごろ木々に囲まれた工場をイメージしていたのに、どうしてなのか」。 原因は土壌でした。
木々が育ちにくい土質であるうえに建設残土もあり、当時の当社の技術ではどうしようもありませんでした。
しかし、土壌がどうあれ、得意先が望んでいるのは、すくすくと木が育つ環境です。どんなに立派な木を植えても、その土質が植樹に適していなければ、まさに砂上の楼閣ではないだろうか。せっかくいい助言を得たのに、これまでと同じことを続けていては、いずれ信頼を失う時が来るかもしれない。
得意先の方との話をしながら、そんな不安が脳裏をかすめていました。同時に、2年ほど前に行った海外視察の出来事を思い出していたのです。

海外視察での発見をヒントに、企画開発室を創設

大島造園土木株式会社の歴史その海外視察とは、1971年(昭和46年)、(社)道路緑化保全協会が主催し、40日間という長期日程でアルゼンチン、ペルー、ブラジル、メキシコそしてアメリカのフロリダ、ニューヨーク、最後にカナダのトロントまで、南米から北米まで縦断した時のことです。その旅の途中のロスアンジェルスで見たポット栽培が印象に残っていたのです。聞いてみると、アメリカのナーセリーには、植木の根回しという技術はなく、ガロン缶で苗を育てているとのこと。人工の用土と、完全殺菌された温室で育てた無菌の樹木を使い、それをガロン缶に差して少しずつ大きくして出荷していたのです。
それを見て、これだ!と思ったのです。
日本では、根っこをぶつぶつと切って根回しをして植えるのに、ここでは容器の中で育てるから根を切らない。根っこを切らないからいつでも動かせるし、翌日からでも成長させられる。この方法なら、植えても枯らすことはない。あとは、土。土壌改良をなんとかできれば、枯らすことなく、すくすくと成長する木が育成できると考えました。 当時は「お金もないし、人も、ヒマもないから」と棚上げになっていた取り組みでしたが、それから数年を経て、利益もそここそ出せる会社になったこと、そして得意先からの貴重な指摘と助言が、一気に実現へと向かわせました。
胸にしまっていた思いが結実したのは、1973年(昭和48年)。「企画開発室」を創設し、緑化・造園に新たな価値を付与する企画開発型の造園会社として新たな一歩を踏み出しました。
以来、悲願の土壌改良はもとより、多種多様な商品・技術の開発、そして現在では環境緑化という視点からCO2削減に貢献する商品の開発などを手がけるなど、当社の頭脳を担うセクションとして機能しています。

活動の中心は、いつも人

会長:大島嘉七昭和から平成へ。時代が移り変わる中で、人々の価値観や社会の在り様にも大きな変化がみられます。緑化・造園事業は、もはや作庭というだけでなく、都市の、街の、そして暮らしの環境をデザインする重要な役割を担っているのではないかと思っています。 その広く深いフィールドの中で、当社が何を求められているのか、と改めて考えてみると、それは常にお客様の立場で仕事に取り組み、どんな難題にも誠実に対応し、「YES」で答えることだと思います。「誠実さ」というのは、当社の社風であり、唯一誇れるアイデンティティだと考えています。一人ひとり、1社ごとのニーズに目を向け、お客様とともに課題解決に取り組むところから、新しい価値が生まれ、信頼関係が育まれてきます。 私は、2010年(平成22年)、社長を退任し、現場の第一線からは退いていますが、当社に脈々と受け継がれてきた「誠実さ」というDNAは、これからもしっかりと伝承されていくと信じています。


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